はじめに

はじめにとゆうタイトルが似合う文章を見つけたので少し長くなるけどここに残しておこうと思う。

「いかなる統制も受けずに」等々。

ぼくは、シュルレアリズム第一宣言中のブルトンのこのことばは今日、そして特に今日、その全き価値を保持していると思う。
我々の活動はただ、我々自身でもある宇宙への絶えざる問いかけでしかない。
我々一人一人にとって世界とはまさにスフィンクスだ。
我々がつねにその前に立っているスフィンクス、つねに我々の前に立ち我々が問うているスフィンクスだ。
我々にそれができるのは、注意を肉体的にも持続させ、全存在をあげて待機している状態、そして全ての面で可能な限り制約を受けない自由な状態においてのみだ。
そして我々は自分に聞こえるもの、あるいは聞こえると思うものまでも記し、留めるのである。

世界は無数の面を持った水晶の塊に比べることもできる。
それぞれの構造と位置に従って、我々は一人一人が、その水晶の幾つかの面、幾つかの面のある部分を見るのだ。
そしてその描く絵、書く詩、作るオブジェ等は、各人が見ているものについての証言でしかない。
ある何人かのグループがある一定の時に見るとしたら、その見た面のすべては角度や傾斜が僅かに違っているくらいで、非常によく似通っているのは明らかである。
そしてそれらの面を遠くから眺めるなら、それは全体でただひとつの塊しか成していず、空間の闇に浸されている無数の面のすべてに比べればはっきりとし形をしている。
我々各人の作り出すものは、この角度や位置の僅かな違いの正確な反映である。
我々を夢中にさせうること、それは新しい切先、新しい空間、新しい空間のごく小さな部分を発見すること、それを薄暗がりの中で見ることである。
それは光がどうにか擦っているかいないか、というぐらいのものである。
それは次第に遠ざかりながら謎のひと言を語るスフィンクスである。
そしてその言葉のすべてが人間の知識をつくり上げている。
そしてこの知識は未知の中でつねに揺らめいてやまない、ごく微小な光だ。
未知は濃く、重く、我々を取り囲み、我々にふれ、我々の中に入りこみ我々を包み、我々の原子の一つ一つを満たしている。
絶えざる問いを知りたいという思いに絶えずつきまとわれているのは、我々には生まれつきのことなのだ。
植物の中で、その植物が生存するためにする千もの動きひとつひとつのようなものだ。
植物の活動と我々の活動の違いは、ごく小さい違いであれ、ぼくには思い描くことができそいうにない。
ぼくの考えでは、人間の活動のすべては、機械的な動きや反応の塊でしかなく、それは一枚の葉、石のひとつの原子の動きや反応と同程度に盲目的であったり、盲目的でなかったりするのだ。
我々はあるものに興味を抱き、他のものより特にあるものに興味を抱いたりするが、それは我々の成り立ちが我々にそうさせるからなのだ。
別の考え方や行動をすることは我々にはおそらく不可能であるからだ。
自分の足の長さや病気を選ぶことができないように、我々は自分の考え方や表現の方法を選ぶことができない。
そして我々がどうしても表現したいと思って夢中になれるこの熱中は、朝消えているランプの球のまわりを回っている蠅の動きと同じ種類のこと、まったく同じ種類のことなのだ。

1929年 アルベルト・ジャコメッティ
この文章を初めて読んだ時が2001年で僕が25歳の時、そして最近ジャコメッティの著書をトイレに置きことあるごとにパラパラとめくっていたらまたこの文章が目についた。
抽象的な部分もありわかったようなわからないような気持ちにいつもさせられるが気持ちがすごくポジティブになれる。

コンドルの日記もそんなポジティブなものにしていきた。